ICUには1969年当時有名なフレマンという英語のコースがあった。正式にはFreshman Englishと言って新入生は1年間朝から夕方まで英語漬けにされて1年が終わるころには英語がかなり上手になっているはずだった。ところが、1969年は大学紛争のため11月まで授業がなかった。そのため、学生運動に興味を持った学生は四六時中全共闘のアジトに行って「我々は労働者諸君と共に最後まで戦うぞ」などとシュプレヒコールの練習をしたり、角材を持って機動隊と衝突した際の隊列の組み方を練習したりしていた。イジケビッチは、親から仕送りを受けて学生運動とはナンセンス、と思い、日本脱出を目指してひたすらアルバイトに熱中していた。いろいろなアルバイトをしたが、その中でまともだったのは米軍基地で米兵の帰国を助ける引っ越しのアルバイトだった。それは、寮の2年先輩で日本航空のパイロットになった人の紹介だった。彼はお父さんの関係でインドなど外国生活が長くて英語がペラペラで、その引っ越しの通訳のアルバイトを以前からしていた。仙台で中学校から英語が好きだったイジケビッチは少しは英語に自信を持っていたが、未だにフレマンで鍛えられたわけでもないので、夏休みにその通訳の仕事の話があった時躊躇した。しかし、その先輩はやってみてだめだったら、通訳ではなくて通訳の下で黙々と荷物を運ぶ運び屋をすればいいじゃないか、と言ったので、それじゃやってみるかという気になった。
当時寮生活を送っていたが、アルバイトの期間2ヶ月は日曜の夜横浜の本枚に借りた駄菓子屋の2階の下宿屋に行って寝泊まりして、金曜の仕事が終わってから東横線で三鷹に帰るという生活をすることになった。
アルバイトの初日朝7時過ぎにいったい自分に通訳が出来るのか半信半疑で仕事場に向かった。すでに30人ほどいたが、服装や態度などどうも山谷で一緒にヨイトマケをした連中と似ている。こりゃまたすごいアルバイトになりそうだぞと思うと思わず武者震いがした。先輩がイジケビッチを人を振り分ける責任者に紹介してくれた。その責任者は左頬に5センチぐらいの切り傷があり、ドスのきいた声でテキパキと指図していた。先輩の話を聞いて、「おお、お前が新入りか。宜しく頼むぜ」と言ってイジケビッチの肩をバシっと叩いた。「今日は初めてだから軽い仕事をやろう。お前の車は神奈川の大和だ。夫婦と赤ん坊の3人家族だから、2時頃までには終わるだろう。しっかり頑張れよ」と言いながら、引っ越しに必要な書類をイジケビッチに手渡した。後で分かったことだが、仕事というのは横浜から東京近辺にある米軍基地に行ってアメリカに戻る米兵の家族の荷物をトラックに積み込むことだった。仕事は通訳と運び屋の2種類だった。運び屋は荷物を箱に入れて黙々とトラックまで運び、通訳はもちろん米兵と運び屋の通訳の他に積み込む荷物のリストを作ったり、オーナーの指示を運び屋に伝えたりすることだった。
さて出発ということになってトラックに向かった。トラックはダンプカーよりさらに一回り大きいトラックだった。助手席に乗ってもトラックの後ろに乗っても良かったが、イジケビッチは寝そべることが出来る後ろに乗った。近い所で1時間ぐらい、関東村と呼ばれた埼玉の基地になると片道2時間ぐらい車に揺られて行くが、大和は比較的近くだった。仕事初めとなった大和の基地の仕事はさすがに猛烈に緊張した。基地に着いて目的の住所に着いたら、そこは黒人の家だった。それまで黒人の英語はあまり聞いたことがなかった。ラジオでレイ・チャールズやナット・キング・コールの歌を聞くぐらいだった。その黒人の英語はかなり聞きにくかった。非常に親し気に話をするのだが、南部なまりが強いのか発音が聞き取れなくて四苦八苦した。どうでもよさそうなことには適当にイエス、イエスと答えていたが、さすがに荷物のリストを作る時には一つ一つそれが英語で何と言うか彼に確認して正しい英語を書き込んで行った。赤ちゃんも奥さんも人なつこくてしきりにイジケビッチに話しかけるが、英語が聞き取れないイジケビッチは適当に返事をするだけだった。
責任者が予想した通り2時頃までに全部荷物を積み終わった。リストを確認して黒人のオーナーに別れを告げた時、オーナーが笑いながら何かを言った。だが、イジケビッチは彼がいったい何を言ったのか全く理解できなかった。彼が笑っているから自分も笑うべきか、真面目な顔で別れの挨拶をもう一度言うべきか迷ったがどうしていいか分からなくてあせってしまった。その時オーナーが「今のは冗談だよ。じゃあな」と言って背を向けたので、イジケビッチは救われた思いだった。そして、トラックは一路横浜に向かって戻り始めた。朝から緊張しっぱなしのイジケビッチはトラックの後ろで横になると疲れからまたたく間に深い眠りに陥った。キーーッという音とガタンという揺れで目を覚ますと、もうそこは横浜だった。早速事務所に行って責任者に書類を渡した。責任者は、「よしこれで大丈夫だな。明日からは他の通訳と同じような仕事をやってもらおう。今日は御苦労さん」と言いながらまたイジケビッチの肩を強く叩いた。その夜のビールがおいしかったことこの上ない。
このアルバイトでイジケビッチが学んだのは、アメリカ人の英語と言っても出身地、住んでいる町、階級によって発音がさまざまで、もっともっといろいろな人の英語を聞いてさらに英語を勉強しなくてはいけないな、ということだった。
怎Cジケビッチ
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