Jマートというディスカウントストアへ買い物に行ったら、一つの売り場にカラオケ用のテープが所狭しと並んでいた。何人かの人が非常に真剣な表情で選んでいる。5本ぐらいまとめて持っている人もいる。思わず去年の国産米の買い占め騒ぎを思い出してしまった。テープを買ってこっそり家で練習して、いつの日かみんなの前で自慢の喉を披露するのだろう。
それにしてもカラオケの勢いはすごい。以前はサラリーマンが酒を飲んで 恥心がなくなってから、それではとおもむろにカラオケバーに繰り出したものだが、今は真っ昼間から主婦や学生が酒なしでカラオケボックスで絶叫する。物おじする様子もなく慣れた感じでマイクを握る。特に、若い人達は小さいころから歌い慣れているのかリズムに乗って上手に歌う。我等オジンは恥ずかしくて歌うまでなかなか腰が上がらないし、何かおどおどしたような「では、歌わせて頂きます」という感じで歌い始めるが、若者は「私の番だから歌って当然」といった堂々とした感じで歌う。また悔しいがその歌が実にうまい。シンコペーションや三連符などなんのその、軽快なリズムに合わせてのりまくる。
しかし、よく聞いて見ると、彼等が歌っているのは最近のポップス、ロック系の歌がほとんどで、演歌や歌謡曲を歌っている若者はあまり見かけない。つまり自分の時代の西洋音楽の影響を受けた歌を中心に歌っているわけだ。これは、考えようによっては我等オジンが良き時代に流行した演歌やフォークソングを歌うのと全く変わりはないのだ。だから、理屈では我等オジンも同じように我等の時代に流行した古い演歌や歌謡曲を歌えばいい。しかし、若い人達と一緒にカラオケに行くと、我等オジンはどういうわけか自分まで最近の新しい歌を歌わなくてはいけないと考えてしまう。その歌にしても最近流行した演歌や歌謡曲ではなくて彼等の得意な分野の歌を歌わなくてはいけないという目に見えないプレッシャーを感じてしまう。では、一体どうして大きい顔をして古い演歌や歌謡曲を歌うのを躊躇するのだろうか。
一番大きな理由は、古い演歌や歌謡曲を歌ったら若い人達にどう思われるだろうかということを気にしすぎるからだろう。若者の間には演歌、歌謡曲は若者の感性に合わない野暮ったいもの、垢抜けしないものという考え方がある。特に演歌は暗い感じの短調のゆるやかなスピードで涙、雨、港などセンチメンタルな歌詞が歌われるので、明るいアップビートの音楽を好む若者には受けないのだろう。また独特のこぶしをきかせた演歌の歌い方がわざとらしくて気に入らないという人もいるだろう。スピード感、メロディーの暗さ、言葉の平凡さ、コード展開の単純さなどから演歌を敬遠するのだろう。そうすると、我等中年オジンは何とか若者に合わせよう、気に入られようとするから、彼等が好きではない唄を敬遠することになり、彼等の前で古い演歌、歌謡曲を歌うのを考えてしまう。 また、一般的に演歌を好んで歌う人は学歴が低い労働者階級の人という変な偏見や固定観念がある。魚河岸勤めの地下足袋を履いてはちまきをしたお兄ちゃん、建設現場でヘルメットの下に手拭を垂らして働く季節労働者などが焼酎片手に演歌を歌うというようなイメージがあるから、演歌は若者に敬遠される。だからそのような教養がない人、学問がない人というイメージを若い人達に与えないように我等オジンも演歌を敬遠するようになる。
この我等オジンが若者の目を気にする傾向は日本人一般に共通した他人の目を気にする性癖だ。外国人が日本についてどう思うか、隣近所の人がうちのことをどう考えるか、学校/会社でみんなが自分のことをどう思うか世間の目を気にする傾向と全く同じだ。人は誰でも他の人から良く思われたいと考えるだろうし、「出る杭は打たれる」ということがないよう周りに気を配るのも大事なことだろう。しかし、オジンが若者の前で演歌や歌謡曲を歌うのを躊躇するのはそれとは少し違うような気がする。勿論若者にダサイと思われたくない気持ちが強いが、どうも私には若者に阿るような気持ちがかなりあるような感じがする。若者のようにもう少し自己主張して堂々と演歌を歌ったらどうだろうか。(速水健次郎 「辛口エッセイ」)