うちの大学には6週間の春学期がある。昨年春学期に3人の学生を連れて金沢に来て5週間を過ごしたが、今年も5人の学生と共に金沢の春を謳歌している。今年も金沢駅近くのウイークリー・マンションを借りて滞在している。昨年は9階で高所恐怖症のイジケビッチは外を見るのが恐ろしかったが、今年は同じ建物でも部屋は4階なので、住まいに関する限り不安はない。毎年日本に戻って来る度にいろいろなことに気が付くが、今年金沢に滞在して気が付いたことをいくつか上げてみよう。
先ず、昨年も感じたことだが、大通りの交差点のいくつかで横断歩道がなくて、歩行者が道の反対側に行くために地下道を使わなくてはいけないのが非常に腹立たしい。これは歩道橋の設置と全く同じ考えで、車優先の考え方だ。金沢市は、交差点に横断歩道を設ければ、車の流れが悪くなって渋滞がひどくなると考えて、横断歩道を廃止して地下道にしたのだろう。歩道橋ではなく地下道にしたのは、「小京都」と呼ばれている金沢の美観を損なわないようにという配慮からであろう。イジケビッチは五十路でまだ歩行に関しては問題がないので、地下道に潜ることにあまり抵抗がないが、高齢化社会の到来を思うと、果たしてそれでいいのか甚だ疑問である。七十路を越えていると思われる男性が杖を使い、「よいしょ」とかけ声をかけながら階段を一段ずつ上っている姿は本当にしんどそうだ。歩行者を地下に追いやって、車が我が物顔に道路を独占するというのは、高度成長期の名残りだ。現在確実に高齢化社会に向かっているのだから、発想を転換して、高齢化社会に適した街作りを考えなくてはいけない。渋滞を緩和したいのなら、交通量を減らすことを考えるべきだ。通勤にマイカーを利用している人が多いなら相乗りを奨励して一人乗りの車をできるだけ減らす、商売用の車が多いなら時間規制でラッシュアワー時の使用を規制する、バス、電車など公共運輸機関を利用してもらいたいのならバス専用レーンを更に増やしたり、バスや電車の定期券をもっと割安にしたりする、などを真剣に考慮すべきだ。地下道より交通量の削減をモットーに高齢化社会に備えようではないか。
次に、町を歩いていてチューイングガムを噛み終わった時や、鼻をかんでいらなくなったティッシューを捨てたい時、最近はあたりを見渡してもゴミ箱を見つけるのはほとんど不可能だ。オーム真理教のサリン事件以来駅構内からゴミ箱が撤去されたという新聞記事を読んだことがあるが、町中でも数が極めて少ないことに気が付いた。今年は片町、兼六園、金沢城、東茶屋街など市内各所を写真撮影のために歩き回っているが、とにかくゴミ箱が少ない。飲み物の自動販売機の周りにはビンや缶を入れる穴はあるが、それは普通のゴミ箱ではない。ひどいところでは、自動販売機はあるのに周りに飲み終わった空き缶、空きビンをすてるゴミ箱がない。金沢駅でもホーム上だったらあるが、駅ビル内では見かけない。しかし、ゴミ箱がないからと言ってポイ捨てでゴミがあちらこちらに見られるというわけではない。それどころか、金沢の街はほとんどのところが非常にきれいで清潔だ。以前は公園や美術館、博物館がある敷地内でゴミ箱が見られるのは普通だったが、最近は見つけるのが難しくなっている。金沢では犬の糞同様ゴミの所有車が責任を持ってゴミを家に持ち帰っているのだろうか?
今年の春は滞在中にたまたま市会議員などの選挙があり、金沢に到着した日からラウドスピーカーの歓迎を受けた。「Xでございます。最後の追い込みに向けて頑張っております。どうぞ宜しくお願い致します」、「市民の味方、Yでございます。より良い社会を作るために全力を尽くしております」、「通勤、通学途中の皆様、おはようございます。金沢を住み良い町にするために努力しているZでございます」などとラウドスピーカーのボリュームを全開にして絶叫している。こぼれんばかりの微笑みを浮かべて、白い手袋をはめた手を大きく振って有権者に挨拶している。日本では見慣れた光景であり、当たり前の選挙活動であるが、久しぶりに出くわしたイジケビッチには非常に耳障りだ。アメリカだったら、あのラウドスピーカーは右翼の街宣活動同様確実に騒音公害の対象になり、警察が出動ということになるだろう。その騒がしさは、歩きながら話をしている隣の人の声が聞こえないくらいである。騒音の垂れ流しと言っても過言ではない。選挙だからそれは当然、選挙にラウドスピーカーはつきもの、と一般の市民は考えているのだろうが、1週間も耐えなくてはいけないのだろうか?市会議員の場合は選挙期間は1週間だそうだが、国会議員の選挙の場合は2週間も続くそうだ。選挙の時の騒音を快く思っている国民はあまりいないだろう。大多数が不快に感じているなら、早急に何らかの行動を起こすべきではないだろうか。ちなみに、ラウドスピーカーの音量が大きければ大きいほど、また候補者の呼びかけが絶叫調であるばあるほど、その候補者に投票する可能性を少なくする、というのがイジケビッチの有権者としての態度である。
先日ゴールデンウイークの最後に、石川県国際交流協会の職員で、うちの学生がお世話になっている女性二人に七尾市で開かれた青柏祭や能登半島の一部を案内してもらった。ドライブの途中、あるレストランで昼食を食べた。女性軍はグラタン、イジケビッチはスパゲッティを注文した。10分ほどでイジケビッチが注文したスパゲッティが来た。一人の女性がすぐに、「冷めますからどうぞお先に」と言ってくれた。しかし、女性二人をおいてどうして私だけ食べはじめることができよう。もちろんグラタンが来るのを待った。5分後に一つだけ来た。同じ時に注文したのに、もう一つが来たのはさらに5分後だった。初めに来たスパゲッティと最後に来たグラタンの間には10分もの差があった。当然スパゲッティは冷めてしまっていた。注文した物が別々に来るのはよくあるのか二人の女性に聞いたら、それが普通だとのことだった。これがまだスパゲッティだから良かったが、ラーメンやてんぷらそばだったら麺が伸びてしまってまずくなってしまったところだろう。日本の店やレストランでのサービスはすばらしいが、注文した物をばらばらに持って来るという点は改善の余地がある。多分暖かい物を早く提供しようという考えに基づいているのだろうが、お客は当然みんな一緒に同じ時に食事を楽しみたいと思っているだろうから、同時に提供することがお客に対するサービスだと考えるべきだ。同時に食べ物を提供するためには作り始めるタイミングをずらせばいい。料理人の都合で注文を受けた時点で全部を作り始めて、別々に食べ物を提供するより、料理を作り始めるタイミングをずらして、全部の料理が同時にできるようにした方が、皆同じ時に一緒に食べたいというお客の欲求を満たすことになり、より良いサービスになる。二人の女性の話を聞いていると、食べ物が別々に来るのは当たり前のようにお客の方でも考えていて、来た順番から食べ始めるようだが、やはりこれは何かが間違っている。休日の愉しみの一つが家族みんなでドライブしてその後外食、ということを考えると、料理人がお客のニーズに合わせて注文を受けた料理を同じ時に提供出来るように改善すべきである。
他にも、テレビを見ていて気になるのは、朝晩のトークショーの多くで、常に複数のゲストがいることだ。多い時には5、6人もいる。「蜂の巣をつついたような」というのは喧噪を表す例えだが、まさしくそのような状態だ。なぜあんなに多くのゲストを迎える必要があるのだろうか。ほとんどのゲストはその番組の中で議論されるトピックの専門家でも何でもないタレント、コメディアン、俳優などだ。彼等のコメントも自分の言いたい放題で、問題の核心に迫るというようなものでは全くない。政治の座談会で各党の代表が政見を表明するというのなら、複数のゲストがいても全然違和感がない。2003年5月時点での主なニュースは、白装束の団体の奇妙な行動、SARSの蔓延、タマちゃん騒動、イラクの戦後復興問題などであるが、複数のゲストを迎えて放送される番組のトピックはどちらかというとあまり重要でないトピックに限られているようだ。ゲストに払う出演料だけでもかなりの額になるものと思われる。あるいは、安い出演料でもテレビに出て顔を売りたいというタレント達のお家の事情によるのだろうか?とにかく、あまり重要ではないトピックについて勝手なことをしゃべっているトークショーは、見ていて甚だ退屈だ。
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怎Cジケビッチ