日本美術の話をする時忘れてはならない人物の一人に岡倉覚三がいる。岡倉は1862年横浜で貿易商の息子として生まれた。小さい時にお寺で仏教、儒教、道教の混じった教育を受け、英語学校のアメリカ人宣教師から英語を学んだ。12才の時に東京外国語学校に入学、14才の時に開成学校(今の東京大学)に入学して、在学中1879年に結婚した。翌年卒業して、美術行政の専門家として文部省で仕事を始め、日本各地のお寺や神社を訪れて、仏像や美術品を鑑定した。日本の古美術のすばらしさを再認識して、それを広めようと努力した。1884年法隆寺の夢殿でフェノロサと共に観音像を見つけたのは非常に有名である。
1886年に文部省から派遣されて美術取調べ員としてフェノロサと約9ヶ月欧米に出張しいろいろな国の美術品を見たが、この時初めて外国から日本を見る機会を得た。これが岡倉の生涯を変えた。この旅行のおかげで世界の中の日本や外国にいる日本人の自分を見つめる客観的な目を養うことができた。
1889年明治憲法ができた年にわずか27才で東京美術学校を開校して、翌年校長に任命され、それ以後8年間若い芸術家を育成したり、古美術の調査、保存、分類、保護に努力した。また、当時は洋画が全盛だったが、従来単なる職人芸として軽視されていた伝統工芸の作家達や狩野派の絵師達を教授に任命して、日本の伝統芸能を復活させようとした。
しかし、あまりにも急激に改革を行おうとして学内で反発が起こったことや、家庭内で妻との不和が生じたりして精神的に参ってしまい、深酒をして現実から逃れる毎日になってしまった。そのため校長としての任務にも支障をきたすようになり、1898年校長を解任されてしまった。その頃が岡倉の人生で最低の時期だった。職を追われ全くの無一文になってしまったが、友人達の励ましや金銭的な援助があり、同じ年に日本美術院という新しい学校を設立して若い画家を育てた。「可愛い子には旅をさせよ」ということわざがあるが、岡倉も自分が欧米旅行で視野が広がったことを経験していたので、若い画家達を積極的に外国へ送り出して、外から日本を見て、日本の良さを再認識する機会を提供した。彼自身も1901年にインド各地を旅行して見聞を広めた。
岡倉は小さい時から英語を習ったので、英語は得意であった。彼の著作物はすべて英語で1903年「東洋の理想」という本をロンドンで出版して日本美術の歴史を世界に紹介した。また、翌年には「日本の目覚め」という本をニューヨークとロンドンで出版、日本史をテーマに日本人の生活や思想を紹介した。1906年には彼の著作物の中で最も有名な「茶の本」をニューヨークで出版、西洋社会の人々に対して日本をはじめとするアジアの精神構造やものの見方を分かりやすく説明した。当時英文による日本紹介の著作物としてはこの「茶の本」と新渡戸稲造の「武士道」が最も有名である。
日本の古美術の再認識という点から考えると、法隆寺の観音像を見つけたのと同じぐらい重要なのがボストン美術館での仕事である。1904年岡倉はボストン美術館の中国・日本部の顧問に就任してボストン美術館に眠っていた芸術品を識別、分類したり、美術館のために日本、中国各地を回って古美術品を購入したりした。日本とアメリカの間を5回も往復して日本の美術、ボストン美術館のために奔走した。
岡倉は人間的に非常に魅力的な人物であったらしく、多くの人々が彼のスポンサーになり、学校の設立を可能にしたりやボストン美術館の充実させるために彼を援助した。幼少の時に母親を失い、生涯母親の愛に飢えていたことが彼の交友関係に影響を与えていたかもしれない。彼の非凡の才能と個人的魅力が日本美術の普及に大いに貢献したことは疑いようがない。
次の質問に答えなさい。
1 岡倉覚三が東大を卒業したのは何年ですか。
2 覚三が欧米を旅行して得たのはどんなことですか。
3 覚三が東京美術学校の校長になったのは何年ですか。
4 覚三は東京美術学校の校長としてどんなことをしましたか。
5 覚三が若い画家達に提供したのは何ですか。
6 覚三の著作物について簡単に説明しなさい。
7 覚三はボストン美術館で仕事をした時どんなことをしましたか。
8 20世紀の初めに日本を紹介する英文で有名なものにどんなものがありますか。
参考文献:
「岡倉天心」 色川大吉 中央公論社 1984
「岡倉天心」 大岡信 朝日選書 1985
「岡倉天心 人と思想」 橋川文三 平凡社 1982
「岡倉天心との出会い」 堀岡弥寿子 近代文芸社 2000
「岡倉天心:「茶の本」を読む」 山崎武也 PHP文庫 2000
怎Cジケビッチ
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