日本語教育裏話


「うん、よし、やってみなさい。私が応援するから」


私の少ない可能性を最大限に広げて下さったモネイン先生
  私の人生において衝撃的なというか劇的というか良い意味でショッキングな出会いをさせて頂いたと言える方の一人にハーバード時代の上司であったモネイン先生がいらっしゃいます。いらっしゃった、と言った方が正確かもしれません。1991年1月若くして夭逝され今この世にはいらっしゃいませんが、多くの方々の心に今でも鮮明にモネイン先生の思い出が残っているのではないでしょうか。先生とは合計5年ぐらい一緒に仕事をさせて頂きました。今振り返ると全くなさけない話ですが、一緒に教えていた当時は彼女の素晴しさを十分理解できませんでした。本当に鈍い人間というのはどうしようもないですね。一緒に先生と教えていた時には全く先生の良さが分からず、バージニアに移り独立して人を使う身になってはじめていろいろ先生がおっしゃったことの意味が理解できるようになりました。
  モネイン先生から学んだ一番大きいことは、「失敗を恐れずに全力で自分がしたいことに向かって挑戦してみよ」ということです。モネイン先生が上司になったのは、私が78年にアメリカに来てハーバードで教え始めてから5ー6年たった時です。初めの印象は、NHKのアナウンサーだった鈴木健次という人がよく使った「気配り」という言葉が流行したからかもしれませんが、よくいろいろなことに気がつく女性だな、という程度でした。下で働く私達の話をよく聞いて下さったり、いろいろな機会にみんなのためにおいしい日本料理を作って下さったりしました。モネイン先生の気配りはそれはそれは細かいものでした。ハーバードでは彼女の下に4ー5人コースの責任者がいて、その責任者の下にドリル・インストラクターがいましたが、すべての部下に対して120パーセントの配慮をなさいました。がさつな私などから見るとやりすぎじゃないかと思うくらい一生懸命に努力なさいました。先生はよく色々な所で開かれる学会などで旅行なさることが度々ありました。しばらくお宅を空ける時にはいつも料理が得意でない御主人が料理をしないで簡単に食事が出来るように、旅行の数日前から料理を作られ冷凍庫に小さいパックにして冷凍にしたそうです。御主人が先生について話される時の表情は「私はぞっこん彼女に惚れているんだよ」という感情が分かるようでした
  1986年私がハーバードで教え始めて8年目、今考えると8年で首になるというハーバードのプリセプター(preceptor)という独特のポジションの契約の最後の年で、首が半分以上地面に垂れ下がっていた年でした。3月シカゴのヒルトン・ホテルでAAS/ATJの学会があり、私もアメリカに来て始めて学会で発表しようという気になった時、1月にモネイン先生に発表について相談しました。その時の先生の言葉がタイトルにある、「うん、よし、やってみなさい。私が応援するから」という言葉です。正確には先生が何とおっしゃったか記憶していませんが、多分そのような意味だったと思います。相談した後早速月例の勉強会で私の発表を練習させて下さり、自信をつけさせて下さいました。おかげで、シカゴの学会では緊張してドモリながらも手作りの受け身と使役受け身のビデオの紹介ができました。先生の一言が当時教授法に全く自信がなかった私にやる気を起こさせて下さったのです。今考えると上司にモネイン先生がいて下さって私は本当にラッキーだったなあと痛感します。その後、契約が切れる8年を越えて3年延長して下さっただけでなく、私がハーバードにいた最後の年には、学部長と交渉して下さって5年毎に更新して定年までいられるようにして下さいました。1989年にワシントンアンドリー大学からオファーがあった時私は非常に悩みました。教えることと研究のことを考えたらずっとハーバードに残っていた方がいいですが、子供の将来や家族のことを考えると自然が豊富なバージニアに移った方がいい、さあどうしたらいいか、悩みに悩んだ末モネイン先生に相談しました。「あなたにはいい奥さん、お子さんがいるんだから、御家族みんなでゆっくり話し合ってどうするか決めなさい。氏家さんがこうすると決めたら、私は全面的に応援しますよ」と言って下さいました。熟慮の末バージニアに移ることにしましたが、それ以後もお亡くなりになるまでいつも精神的に応援して下さいました。
日本語教育用ビデオを作る時にも彼女の一言が私にビデオを作る決心をさせて下さいました。1988年に東京書籍という日本で一番大きい教科書関係の出版社が日本語教育に乗り出したいというので市場調査のためのアンケートを全世界に配りました。先生は、ハーバード大学の日本語教育の責任者としてとてもお忙しかったと思いますが、そのアンケートが来た時私に返事を出すようにおっしゃいました。ビデオに関しては私がその前から数年実験的に手作りのビデオを作っていた関係からか、東京書籍のアンケートの答えは私が考えて出してくれと言われました。私はそのアンケートに、いいビデオの企画がある、お金さえあれば質の良いビデオを作る自信がある、というようなことを書き連ねました。当時はバブル経済の絶頂期でしたが、ビデオ一本作成するのに4ー500百万円かかります。さすがの東京書籍も二の足を踏んで全額援助することはできませんでした。どこかからグラントをもらってくれれば、足りない分を補うという形でビデオを作りましょうと言われ、資金集めをすることになりました。たまたまコンソーシアムというアイビー・リーグの大学で作る団体があり、そこがかなり資金を持っていました。さっそくプロポーザルを書いて、モネイン先生にも推薦状を書いて頂きました。おかげで2万3千ドル(当時の金で300数十万円)もらえ、それでビデオ講座日本語の初めの2巻「受け身」「使役/使役受け身」を作ることが可能になったのです。これもひとえにモネイン先生のおかげです。先生の応援がなかったらイジケるばかりの私がビデオをやることもなかったでしょう。人に自信を植え付け、やる気にさせる才能はすばらしいものでした。

  バージニアに移ってから分かったことは、バージニアではいろいろな学校で日本語を教えているのに教師達の横のつながりが全くないことでした。そこで皆で一緒に教授法を勉強するためにバージニア日本語教師ワークショップなるものを開催することにして、モネイン先生にゲストスピーカーとして来ていろいろなお話をして頂くよう先生にお願いしました。多分秋にお願いしたのだと記憶していますが、お忙しいにもかかわらずすぐ快諾して下さいました。しかし、既にその時までに病魔が先生のお体を蝕んでいてワークショップの2ヵ月前にお亡くなりになってしまいました。今は天国でお幸せに毎日を過ごしていらっしゃることでしょうが、いつの日かまたモネイン先生に再会できるのを楽しみにしています。でも、この世でロクでもないことばかりしている私が天国に行くのは無理でしょう。三浦先生のラケット持ちじゃありませんが、いいとこ地獄の閻魔様の金棒持ちぐらいにしかなれないでしょう。その時は閻魔様にゴマをすって長期休暇をもらい、天国にいらっしゃるモネイン先生を訪ねることにします。


お元気だったころのモネイン先生

怎Cジケビッチ

「日本語教育裏話」に戻る