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「料理をする効用」

 イジケビッチは食い意地がはっていてうまいものには目がない。特に、和食が大好物で、週に1度は和食を食べないと腹の調子がおかしくなってしまう。ボストンにいたころは和食の材料が簡単に手に入ったので、もう10年以上前から週末の金、土、日曜日に和食の夕食を作っている。バージニアのレキシントンに移ってからは材料と言えば、豆腐、白菜、椎茸ぐらいしか手に入らず、和食に欠かせない米、味噌、だし、海苔、ワサビ、まともなラーメンなどは義理の両親が住んでいるコネチカットに行った帰りにニューヨークの近くの和食のスーパーで大量に買い出しをしなくてはいけない。材料がなくなった時はバージニア大学のあるシャーロッツビルという車で75分のところにある町まで買い出しに行く。そうまでして和食を作ることにこだわるのはいくつかの理由がある。
 まず一番大きいのはレキシントンの近くに日本料理店がないことである。レキシントンにはもちろん周りの町にも日本料理店が全くなくて、上記のシャーロッツビルかローアノークという車で約1時間のところにある町まで行かなくてはならない。シャーロッツビルには何軒か日本料理店がありそのうち3つに行ったことがある。二つはアジア人の経営している中華料理の店に併設された寿司バーで巻物しか出さない。もう一つは「東京ローズ」という寿司屋で日本人の板前さんがいるが、シャリがかなり大きめで味はイジケビッチが握る寿司とどっこいどっこいだ。同じような味だったらわざわざ75分も車を運転して行く価値があろうか?ローアノークにある日本料理店もアジア人経営の店で行ったことはないが、学生の話ではまあまあの味だそうだ。学生がまあまあというくらいだったら程度が知れるだろう。というわけで、ローアノークの日本料理店はまだ試していない。本当にうまい和食を食べたかったら、車で3時間半かかるワシントンDCまで出て行かなくてはいけない。時々DCで学会が開かれるので、その時には毎日夕食は寿司屋に行く。
 てなわけで、わざわざ車を運転してまで行く価値がある日本料理店が近くにないという理由で自分で和食を作るのであるが、それ以外に料理を作るのが好きだというのも大きい理由だ。イジケビッチが小学校だったころ、おふくろは親父が経営していた会社の経理の手伝いをしていた関係上、おやつを作ってもらったことがなく、夕食も仕事が忙しくなると8時を過ぎるということもしばしばだった。おふくろに「冷蔵庫にいろいろな物が入っているから適当に作って食べなさい」と言われて、空腹が我慢できる状態だったらひたすら辛抱でおふくろが帰って来るまで待っていたが、我慢できない時には自分でラーメンやお好み焼きを作って食べた。おふくろが料理が上手だったので、味付けをどうするか聞いたが、「本を見て作るわけじゃないから、適当に調味料を入れるのよ。食べてみて何かが足りなかったらその足りないものをもっと入れればいいのよ」と言うではないか。全く何の参考にもなりゃしない、、、。それ以来おふくろが料理をしている時にこっそり見ていて何をどのぐらい入れるのか観察したが、あまり参考にはならず結局自分で適当に加減しなくてはいけないということを学んだだけだった。
 そんなわけで小学校の時から簡単ではあるが料理をするようになり、ICUに入りアパートに住むようになってから本格的に料理を始めるようになった。試行錯誤していろいろな料理を作ってみて分かったことは、料理は材料に大いに影響される、作る人に情熱があれば味も良くなる、旬の物をうまく使えばよりおいしい物が作れる、レシピはあくまでレシピであってそれを基にして自分好みの味が出せる、材料を選ぶ際に栄養のことも自然に考えるようになる、ことなどだ。
 材料に関して気を付けることと言えば、新鮮さと熟し加減が重要なのではないだろうか。レキシントンで握り鮨を作る時に使えるネタは主にまぐろ、鮭、海老ぐらいで、たまにタイなどの白身の魚が入ることもある。以前は陳列されているネタを見て新鮮かどうか自分で判断して買わなくてはいけなかったが、魚売り場の店員と仲がよくなってからは彼に前もって電話で今度の金曜日にはこれとこれが入ったら取っておいてくれ、と頼んでできるだけ新鮮なネタがもらえるようになった。新鮮なのは見た目だけでなく、包丁を入れた時の感じもいいし、もちろん味もいい。カリフォルニア巻に使うアボカドは熟していないといけない。金曜の夜にカリフォルニア巻を味わいたい時、アボカドは料理をする午後4時半頃までに完全に熟していなくてはいけない。完熟の状態にするには前の週の週末に堅くて真っ黒に見える物を買って冷蔵庫に入れておいて、火曜か水曜に取り出して常温で熟するようにする。外から触ってみてぐにゃと指が中に入るほど柔らかくて、腐る一歩手前という状態がカリフォルニア巻に最高だ。イジケビッチ家では数年前から野菜畑で枝豆を栽培している。8月中旬から9月初めにかけて毎晩各自丼一杯味わえる。手作りの枝豆は身が引き締まっていて冷凍のものとは一味違う。しかし、いつ畠から引き抜くか判断するのが結構難しい。一本の枝豆には30から50ぐらいのさやがついているが、全部が全部身もたわわの状態になっているわけではない。いくつかはまだ半分ぐらいしかさやの中に入っていない。全体的に見て90%以上が食べごろになっていたら、思いきって引き抜く。枝豆が美味しいか否かは茹で加減で決まる。イジケビッチはコリコリしたのが好きで、たっぷりの水を入れた鍋に取り立ての枝豆を入れて沸騰させ、強火で3分煮る。3分たったらすぐに火を止めてお湯をすてて塩をたっぷり振りかけて味付けをして、冷蔵庫で冷やして夕飯に供える。水の状態から入れて沸騰させて3分、がイジケビッチに最高の枝豆の味だ。このこだわりは、スパゲッティのアルデンテの茹で加減と同じだ。
 もう一つの料理の楽しみは、独創性が生かせて自分好みの味付けができることだ。作ったことがないものを料理する時には、誰でも最初はレシピを見て作るだろう。それが美味しければ同じレシピでまた作っても良い。しかし、イジケビッチはへそ曲がりで、同じ物を2、3回作ると飽きてしまって、何か変化を付けたくなる。にんにくの量を倍にしたらどうか、とうがらしを使うところで豆板醤を使ってみたらどうなるか、白菜の代わりにチンゲンサイはどうだろうか、などとレシピを離れて試してみる。実験が成功してもっと美味しい料理が出来た時の喜びは何とも言えない。特に、それが簡単な料理で学生にクラスで作らせられるようなものだったら、新しい独自のレシピを開発することができた、と大喜びする。料理は、イジケビッチ個人の知的好奇心を満足させるのみならず、新しいレシピの開発による喜びをももたらす。
 他のところでも何回か書いたが、うちの大学の日本語の授業では、学生に料理をさせる。もともとの目的は、学生に漢英辞典の引き方を練習させることであった。もちろん材料は町のスーパーで手に入る物で、レシピは一時間で料理が終わる簡単なものだ。材料を切ったり煮たりする時間、コンロの上で調理する時間、食べる時間、食器を洗う時間、すべてを計算して55分の授業時間で終わる料理でなくてはいけない。あまり料理をしたことがない学生になった気分で実際に材料を切ったり調理をしたりしてみて時間を計る。そして50分前後で全部が終われば、その料理をクラスで使うことができる。今まで10年以上料理のクラスを授業に取り入れたが、学生の評判はすこぶる良い。日本語の授業のアンケート調査結果によると、料理のクラスでどんなことを学んだかというと、実際に和食を作ることができた、日本の料理を実際に味わうことができた、日本文化が体験できた、料理が楽しいことがわかった、などだ。どんな材料/調味料を使い、どんな味付けをして、どのように盛り付けるか、どう食べるか(食べる時に「頂きます」と言って食べること、熱い物を音を立てて食べてもいいこと、各自小皿に取りわけること)など料理のクラスは日本文化の一部を紹介することになる。  イジケビッチ家での料理の効用で最も大きいのは、家族が和食を堪能できることだろうか。イジケビッチ家はイジケビッチが変ジャパ(変な日本人)、配偶者がアメリカ人、長女は父親が誕生後2週間以内に提出しなくてはいけない出生届を出生証明書を待って5週間後に提出したために日本国籍がもらえなかったアメリカ人、次女は長女のことで懲りた父親がきちんと2週間以内に出生証明書なしで出生届をしたおかげで日本国籍とアメリカ国籍を持っているアメリカ人という構成だ。週末金、土、日とイジケビッチは最低5品を目標に料理を作る。肉料理1、豆腐料理1、麺か御飯物1、野菜を主体にした料理2という感じだ。日本人を父親に持った子供に和食の良さを知ってもらい、将来家庭内で和食を大いに楽しんでもらいたいと思って作っているが、果たして娘達が独立して生計を立てて行く時に和食を作るかどうかは定かではない。一つ確かなことは、家内は旦那が週末に夕食を作ってくれることに感謝していて、毎週週末に和食を楽しんでいる、ということだ。主婦が週末夕食だけにせよ一時的に料理の心配をしなくてもいいのは良いことだろう。てなわけで、夕食の時に家内に、「美味しい料理を作ってくれて有難う」と言われると、単純なイジケビッチは「じゃあ、来週はまた何か新しい物に挑戦しようか」などと良い気になって考えてしまう。「美味しい料理を作ってくれて有難う」という一言は上手な旦那操縦術の一つなのだろうか?
(速水健次郎「辛口エッセー」)
怎Cジケビッチ
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